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バックグラウンドの絵、ご存知?Japan Day by DayのEdward Morseのものです。米国なら、変わり者が礫の時雨を受けるが、日本人は、奇人をにゃっと横目で見てもけっして暴力までも降らない寛容な民族だと。ウエブで調べたところ、蟹の殻が酷い病気に対するまじないのためにも役立ったらしいが、帽子にする話がたしかになかった。最近作は狂歌の本ですからこの方を、奇人の多い文学の分野あるいはそれを大いに受けた日本のシンボルとして表紙に載せるつもりでしたが、狂歌の洗練された面を思わせるには不適切で、結局北斎の絵をかっぱらった。とは言ってもこの可愛い人物を中々捨てられきれなかった。 |
MAD IN
TRANSLATION – a thousand years of kyôka, comic japanese poetry in the
classic waka mode. 最近作の書名は以上の通り。狂歌二千首の英訳という主張はするが、その三百首ほどは出典あるいは詠み人からしては、「和歌」であろう。それは、ね。よく調べたら、内容の上、狂歌と云ってもいい和歌と和歌と云ってもいい狂歌も少なくない。ある歌あるいはそのの主の系譜だけで分類付けるのが、人工知識で捌く機械なら、仕方が無いが、こころあるいは細かな分別できる人間の評論家の場合、けしからん話だ。いや、わが判断が完璧だとおもっていません。ただし、歌それぞれの内容を大切にして、あんまり美しくない日本語しかできない私の判断で、何が何かと定めようとした。あるいは、定めず、置いては、読者にその判断を負かした。 しかし、その狂歌の本格的な英訳。それから、過去からふたつの思い出が、どにもならない思い出にはけちがつけるといってもいい。 その一つは在日のころの仕事にかかる。工作舎という出版社では、自分の見つけた本の和訳チェックを責任をもって、厳しくおこなった。いや、ほかの人の見つけた本も直したが、ともかく、きびしかった。わが気持ち知りたい読者は、白水社出してくださった『誤訳天国』ご覧になってください。ともかく、ある日、編集長の十川さんは、わが文句文句文句に腹が立って「自分で翻訳しないで、よくいうよ。」と、訳者にかわって、仕返し(として感じた)ことばもはなした。十川さんといえば、ごくタッフな編集者で何回も、相手をもう少し親切にして欲しい、と私こそ思ったことがあったからこそ、その批判、しみじみと感じた。しかし、今は、既に一万句+首を英訳して、小生も堂々と編集長(もう出版者でしょうが)に頭が上がります。翻訳者の苦労よーくわかるぞ。言えます! もう一つ思い出では、柳瀬さんのことだ。拙著『コッラム!』の5%を和訳してくれたら、酷くて自分でやり直せなければならなかったとき、正直に「弟子に任せた」と言って、無料となったから、その人の良さも証明されたが、Joyceの和訳で有名になったからこそ、弟子にまかせなければならなかった状態に落ちた、いや登ったでしょうね、柳瀬さんだ。さて。今はいえる。この狂歌の英訳で、柳瀬さんの和訳と変わらない飛んだとんだことやった。残念ながら、翻訳そのものに対して意識ほとんどない米国だから、小生は、マスコミに取り上げられる可能性はすくない。柳瀬さんを含む日本人の知り合いに、Mad In Translationの意味づけを頼むしかないという、妙な立場になります。 なお、狂歌そのものに対しては、吉岡生夫という方は大いに大世話になったことを、はっきりとしたい。氏の推薦した『狂歌大観』が拙著の八割となしたし、何百個までも増したわが質問を、氏は気を長くして答えてくださいました。結局、二人とも狂歌は単にマイナー文学ではなく、和歌のB面あるいは、31音歌の見逃された半分であると、感じる。歌人だから、氏の何が和歌何が狂歌の境意識はわがよりfuzzyのものとはずいぶん異なるが、「狂歌」は「狂歌」と言われてきたものよりもうんと広い分野であろうという基本的意識は意外に近いです。やはり互いに同僚意識までもでてしまった(というと一匹狼とよくいわれているロビン=敬愚です)。 |
さて、下記はMAD IN TRANSLATION の歌リストから、あんまり考えずに抜けた百首ほどの見本だ。中には本歌知らないとおもしろさがぴんとこないものもありますが、これをみてなんとなく本の内容がおわかりになると思います。念のため、いままでに出た一番近い本はなだいなだの『江戸狂歌』です。拙著は、同様に、文学の世界の他所からの、しかもお金持ちでない者の立場からできた本であろうが、十六、十七世紀の古い狂歌の割合がうんと高いし、全数も十倍ある厚本です。和文すべてあるから、英語読まなくてもかって欲しい。(そういえば、わが俳諧英訳の本にも和文あるぞ!日本の蝸牛社のテマ別の本に比べて、中身がいっぱいぞ!英訳はあるが、その、なにもない空白こそないから、日本語の内容も充分です)。又さて、蛇足は一般読者として不自分でしょうが、ともかく |
書物も残らず棒にふる郷の人の紙魚/\憎き面哉 一茶 蛇足「/」には濁点ある。文化十年の作品で書類の消滅で立腹。 石なごのおちくる玉の一二三四五ッ 六七やかましの世や 蛇足:わが子失った一茶老人。西行の石なご歌も参照すると面白い。 通りますと岩戸の関のこなたより春へふみ出すけさの日の足 智恵内子 蛇足:さっぱりしたこんな感じ、江戸の美女の唇まで想像します。 歌よみは下手こそよけれあめつちの動き出してたまるものかは 飯盛 1787年。 蛇足:英訳の一番多い狂歌は、これと四方赤良の酔ってくる春。 ものゝふのこゝろなぐさむ歌よみの蛙はいかで軍するらん 腹藁 編 ? 失典 蛇足:古今の序と慣用語の矛盾を突いた方の狂号の発音すら知らないが。 君かかほ千代に一たひあらふらし よこれ/\て苔のむすまて 雄長老 1547-1602 蛇足:国家になったかの歌をもって遊ぶ狂歌も千首八千首の滑稽むす迄。 偽のある世なりけり神無月ひんほう神は身をもはなれぬ 雄長 老狂歌百首 蛇足:上方と云っても貧困知り、貧乏神+神無月歌が多い中で傑作。 借銭も病もちくとある物をものもたぬ身と誰かいふらん 松永貞徳 蛇足:合理てきで幼稚っぽいが、それでもいい。概念狂歌の傑作。 猫の妻もし恋ひ死なば三味線の可愛やそれも色にひかれて 後西上皇1638-85 蛇足:猫と三味の狂歌もすくなくはないが、「革」の掛がうまい。 かつ見れどうとくもあるかな 月影のいたらぬさともあらじと思へば 貫之kks71 蛇足:涙のおかげで胸を焦がさずにすむ同じ貫之だが、これもいかれた かくばかりめでたくみゆる世の中を うらやましくやのぞく月影 蜀山百集 蛇足:これもかなり有名が、皮肉も多少含むというわが解釈は新しいかも。 心には たれもおもへど かはづほど 春のわかれを なくものはなし 蜀山家集 蛇足:いい観測。ここには、俳諧にまなぶこともある。 雁鴨はわれを見捨てて去りにけり豆腐に羽根のなきぞうれしき 良寛 蛇足:この自由自在な発想は狂歌の「連」の外にあっても関連ある。 老いらくを誰がはじめけん教へてよいざなひ行きてうらみましものを 良寛 蛇足:楽ではない、な。風神に憤慨する本歌はそせいが女流作を、まあ! とかく世はよろこび烏のんで 夜が明たかあ日がくれたかあ 橘州 蛇足:橘州歌の中でこんなに軽い例はほかないとおもう。 横柄に人の妻戸をあけがらすかゝあ/\と呼わたるかな 大屁股臭 蛇足:なんという狂号!天明者の川柳上がり?烏の元気も活かしますね。 雪降りて 雪隠遠く下駄は無し 心にかかる 尻の穴かな 木下勝俊 /木下長嘯子? 蛇足:幼稚っぽいではあるが、ある種の尻作。といえば、 おもひつゝぬればや若衆見えつらん夢としりせばさめざらましを 未得 1649 蛇足:こういう本歌尻取り暗喩術には平賀源内をおもわれる洗練感じる。 螢をはあつめて学ふいにしへの 人をひじりといふは尤 永井走帆 蛇足:聖の語源を日本国語大辞典でみれば、かなり変のもあるが。。。 もの思ふ涙や やがてみつせ河 人をしづむる淵となるらむ 西行 蛇足:西行の涙川涙池涙海尽くした者はいない。やはり滑稽は滑稽。 念仏を強ひて申すもいらぬもの もし極楽を通り過ぎては 桃水和尚 17c 蛇足:こうしたように合理をもって信念を笑う歌が好きで、沢山英訳した。 極楽は十万億土はるかなり/ とてもゆかれぬわらじ一足 一休 蛇足:上記の沢山の中のもうひとつ例。 牛の子にふまるな庭のかたつむり 角のあるとて身をなたのみそ 寂蓮法師 蛇足:子供の世界にはいた狂歌が少なすぎた。もっと見つけたい。 この世にて慈悲も悪事もせぬ人は さぞや閻魔もこまりたまわん 一休 蛇足:一休歌がどれが一休どれが他で作られたか分からないが、いい。 人を網へ入たやうなる蚊屋の内は赤貝も有蛸章も有けり貞柳置みやけ 1734 蛇足:不二の夢の歌ばかりよく見るが、こいう夏の夜の川柳っぽい歌も 天の川羽衣着たら飛び越えん げに空事ぞかささぎの橋 貞徳 百首狂歌 蛇足:後代の狂歌には、橋あれば、なぜ船に凝るかと同じ楽しい理屈。 彦星のひくてふ牛のよだれより このちぎりこそ長たらしけれ 蜀山家集 蛇足:これも貞徳の涎の子孫か? わたつうみの かざしにさすと いはふ 藻も 君がためには くらげなりけり 仁勢話 蛇足:にせものがたりのおおらかな笑いとは、ラベライ流か とし/\にあたまは光源氏にて春の若菜の色好む也 櫻川慈悲成 1805? 蛇足:女子のことですね。慈悲成は禿だったかしらないが、その歌が光る 狂歌には自慢天満大自在 天神ひげをしてもよけれと 信海 古今夷曲集1666 蛇足:髯は卑下だが、この自由な言葉遣い自体はいい。 まふでする道にてあわをふくの神これそまことのべんざいてんかん 卜養 蛇足:縁語大事にする日本だから癲癇のイメージ・アップも狙いか? 棒ほどな涙ながして今ははや 恋のをも荷をになふ斗ぞ 黒田月洞軒 大団c.1700 死にますといふて夜すがらだひてねて今朝のわかれはよみぢがへりか 大団 蛇足:月洞軒とは、発想さえあれば何でも書いてもいい、一番自由な歌人。 岩戸破る手力もがも手弱き女にしあれば術の知らなく 万葉集419手持女王 蛇足:真面目な場合でも、論理が馬鹿ばかしと狂歌になるかならないか? もとよりも塵にまじはる神なれば月の障も何かくるしき 熊野権現 蛇足:仮想?和泉式部の生理中詣でも多くの狂歌も発作?させた。 人も見ぬ宿に櫻を植えたれば 花もて窶す身とぞ成りぬる 式部 後拾遺集 蛇足:狂歌の得意自虐か自笑に長けた器の広い本当の和泉式部は好き。 阿弥陀は 波の底にこそあれ・南無といふ声のうちより身を投げて 竹馬狂吟集 蛇足:七七・五七五調の俳諧も狂歌の心につ通じ合う所も少なくない。 吹きまくるすそのゝ風に仙人もおつるばかりの白はぎの花 加陪仲塗 徳和歌後 蛇足:和歌も蕉門俳諧の自然観照を馬鹿にしている悪遊び。一方 棹姫の裳裾吹き返しやわらかな景色をそそと見する春風 貞徳 蛇足:和歌の風雅美と俗語のそその組み合わせは、女陰陽性志向の前例か。 山たかみ岩根の櫻散る時はあまの羽ごろも撫づるとぞ見る 祟徳院御歌1119-64 蛇足:口語調で発想上の面白さも狂歌を思わせる和歌が皇族に多いみたい。 こされとてすゝきのほてゝまねけとも いやとてくねりくねる女郎花 卜養 蛇足:この自然劇の御陰で一茶句によく「くねる」女郎花の理解も深めた。 またと世にある物でない過去未来げんざへもんがまひのなりふり 半井卜養 1670 蛇足:まったく違うタイプの狂歌。未得も顔負けの言葉あそび傑作。 かみそりのはよりもうすきゑりをきて くひのきれぬはふしきなりけり 竹斎 蛇足:誇張的比喩も狂歌の典型の一つ。竹斎は仮想人ですが、著者は。。 里の子に追ひかけられて毬栗の地に逃げまはるかせの激しさ 朱楽かん江 蛇足:自分の風邪と繋がる前書あったら傑作、これだけでは、凡首だ 焼亡がかきの本まで来たれどもあかしと云へばここに火とまる 白隠 蛇足:その知人の歌の作り直し。旨い魔法使い歌も狂歌の内。 秋の田のかりほの庵の歌がるた とりぞこなつて雪は降りつつ 蜀山人 -1823 蛇足:で出しそっくりの他の百歌もあるが、その内容で時間がひらく 丸裸哀とおもへ寒垢離は 鼻より外にすゝる物なし 大鹿相行人 犬百/賀近 1669 蛇足:蜀山人のような想像のやわらかさは17世紀にも珍しくなかった。 この世をばどりゃお暇と線香の煙と共にはいさやうなら 十返舎一九 蛇足:辞世歌に狂歌が多い。古今夷曲1666年に宗鑑の傑作他沢山あり 再現 笑ひくさ残さんよりもつね/\に挾持おきつれ今はくもなし 笑い艸十口 蛇足:態度は態度。名狂歌になるべき、これは。原文すらウエブにない! いぎりすも ふらんすも皆 里なまり度々来るは いやでありんす 筒井鑾渓 蛇足:これもネットに出会った小傑作。 ねぎ事をさのみききけむやしろこそはてはなげきのもりとなるらめ さぬき 蛇足:古今集の和歌しかもこれは真実だが、達観てき狂歌と呼びたい。 世の中はかりの世なれとかりもよし夢の世なれは又寝るもよし ある人1734 蛇足:英国のHeywood やSkeltonらの馬鹿馬鹿しい陽気とそっくりじゃ。 世の中はかりの世なれとかりにくし夢の世なれとそうもねられす 貞柳 蛇足:ただし、こういうお答えは、狂歌の徳ではないか。 金玉のさだまりかねて火事以後は ちうにぶらつくまらのかりやぞ 月洞軒 蛇足:題になると、月洞軒は蜀山人を上回る自由さ。猥褻多いが。。。 見渡せばやなみすらりとこもかけて都は春の乞食なりけり 鸚鵡籠中記 蛇足:ルポー狂歌。文左衛門の拾った落首で画いた火事のあとですね。 日本のあるじ成べきしるしには 先大焼をしろしめすかな 鸚鵡籠中記 蛇足:我民族ないし国の尊称まで馬鹿にする現在コミックも顔負け。 日のもとの名にあふとてや照すらん ふらざらば又あめか下かは〔泉式部〕 蛇足:安楽さくでんの醒睡笑より。しかし理屈屋の式部らしい狂歌だ。 上よりはすなをになれとふる砂に 我等こときは泥坊になる 鸚鵡籠中記 蛇足:富士の大爆発して子富士生んだころの実感+小民的恨みか こなたには 恋し/\と思へとも 人やうこかぬいはほなるらん 未得 蛇足:江戸時代の海鼠句にも小石小恋しの掛あるが、妙にいい歌だ。 花よりも団子の京となりにけり けふもいしいしあすもいしいし 寒川入道筆記 蛇足:信長か秀吉の城作りのやかましさと女語の「おいしおいし」を 浜見れは真砂に蟹のかうたてゝ はさみきる手をあんしかほする 未得 蛇足:狂歌には碁好きを喜ばす首がたくさんあります。とは言っても、 碁なりせばこうをたてても生くべきに死ぬる道には手もなかりけり本因坊算砂 蛇足:結局、チェックメイトといえば酷すぎる? 屁なりともあだなるものと思ふなよ ブツといふ字は佛なりけり 仙崖 蛇足:DOGはGODの逆とか。糞真面目嫌うなら、これも大切な指摘。 よむ歌をきく人毎にひやされて ひやあせかけば 爰ぞ納涼 黒田月洞軒 蛇足:若いうちに人気を知った蜀山人にも無理だった黒い軽み。 めつらしきけふののきはのあやめくさ ふりにしつまとたれかみるへき 宗良親王 蛇足:狂歌つくるがち和歌人みんなにも菖蒲とる。理屈ながら、暖かい。 掛こひの夜あけにをもき革財布かつぎし肩もはるは来にけり 飯盛 蛇足:聖徳太子を思わせるが、これを見出だしたなだいなだ氏もえらい。 寺子ども引きたる牛の角文字はいろはにほてい和尚なるかな 四方赤良 蛇足:布袋の体と歌の軽みの対も、牛くんならべて、いい! 寒き夜はいかなる歌もよみつべしあまりかゞめは人丸になる 宗也 古今夷曲集 蛇足:天明狂歌ばかりがおもしろいという奴にこの人丸(麿)一首を。 めしはみなくひつくしたる蓮葉にのこれる粒や露とあざむく 瓢のから酒 徳和 蛇足:俊成の玉をあざむく露の名歌はすでに狂歌で沢山狂歌を産んだ。 蛤に はしをしつかと はさまれて 鴫たちかねる 秋の夕ぐれ 宿屋飯盛 蛇足:これも春画の男役?の扇子に書いてあるが、鴫の尻が美しい。 しばらくも 夜床に尻をすえざるは わが妻ならぬ いな妻ぞかし 朱楽かん江 蛇足:いい女房もちながら、あけらかんがけしからん。言葉遊び傑作。 よしや又うちは野となれ山桜 ちらずはねにもかへらざらなん 節松嫁嫁 蛇足:いい女房といえば、この方。機知をもって文句をいうのが最高。 うかうかと長き夜すがらあくがれて 月に鼻毛の数やよまれん 節松嫁嫁 蛇足:月見宴会が何日もながびいたことすらあったし。 てら/\と月のかつら男さす影もはづかしげなる老のはげ山 智恵内子 蛇足:山であることは大変だ。われからして禿と月代は同じく醜いが、 月代の中ずり程に山やけて 山の額のうつくしき哉 一茶 蛇足:農家あがりの一茶の本心か、人間の勝手をふざけか、判らない。 あつめつる窓の蛍の影きえて涙や文のしみとなるらん 智恵内子 徳和1785 蛇足:こいうまじめな、女流短歌も狂歌のなかにみとめられたが。 年暮れし涙のつらら解けにけり苔の袖にも春やたつらむ 俊成 新古今集 蛇足:和歌のテマばかりが、あわせてなんとなく狂歌に近づくでは? うつものもうたるゝものも奥女中 かはらけならぬ 毛沢山なり 蜀山家集 蛇足:みじかい説明が多くの読者には不十分の好例として、これ。本歌はまじめな、いた悲劇的な状況したの辞世歌である「うつものもうたるるものも土器の われての後はもとの塊」 (道寸 銀葉夷歌集1679)が、川柳に出てくる奥女中の性生活までもしらなければ無意味だ。しかも、草履の画賛で草履つくりは本当の解読。で、選歌は、説明する余裕次第というところもあります。 さゞれ石の いはほとなれる 寿は よもぎが島 田丸くなるまで 蜀山人歌集 蛇足:四角対丸物+石が岩になる吉吉。田丸くなる所こそたまらない! |
米国は、うまくいけば6・21は発売。日本ではもう少し時間かかかるかも。アマゾンでごらんになってください。在日のころ大好きな下北沢書店は一回もない。MARUZENは、E-MAILで口説こうとしたが無理。我は一文無しだからNOーRETURNとせざるをえないが、本の値段は安い。売るに違いない。私のために、いや読者のために、我本も本屋に入れるように戦ってください皆さん!決算してみてください。二千首。$37.まえの桜の本は3,000句は$39。英語は完全のおまけにしても日本にないバーゲンです。三百五十句しかない蝸牛社の本と比べて見な! |
ああそうか!値段とISBNなども教えなくちゃ: MAD IN TRANSLATION は、ISBN# 9780974261874 で $37. 6月二十一日出版です。よろしくお願いします。 敬愚 |