書きぶりはジャックケルアック流即興を思わせものの

考え方はヘルマンヘッセ小林一茶、ルイスキャロル、

このすべてを丸めて一つにしたような本なのだRobert D. Wilson

 

 

 

ロビン・ギル(robin d. gill)著『Fly-ku(蝿句)』書評

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句誌『Simply Haiku』編集者ロバートD・ウイルソン

 

私は俳句や俳句論の本をいやというほど持っている。(中略) そして何とか自分の俳句のうでを磨かんものと、その蔵書をピンからキリまで読み尽くした。 そのあげくそれなりの効果はあったと信じたいが、悲しいかな芯から面白いものは、ほとんどなかったと言ってよい。(中略) 

 

それだけにアメリカの詩人で学者のロビン・D・ギルの著書に出くわしたときの私の驚きは大きかった。 書きぶりはジャック・ケルアック流即興を思わせ、ものの考え方はヘルマン・ヘッセ、小林一茶、ルイス・キャロル、このすべてを丸めて一つにしたような本なのだ。 『不思議の国のアリス』の三月ウサギのように、それはいつしか私を心(マインド)の冒険の園へと誘いこみ、『浮け海鼠、千句也!』とか(今私が書評を書いている)『蝿句!』などという奇妙な名前の著書の中を、章から章へと案内してくれた。 俳句と俳句論の学問的な論文の著者について、こんなことを言うのは変かもしれないが、それ以外に言いようがないのだ。 なにしろ世界の俳句界に、ロビン・D・ギルのような人は他に存在しない。真に筆のたつ彼の文章は、読んで楽しくわかりやすいうえ、読む者を虜にし、まさしく病みつきにしてしまう! 『蝿句!』を読みはじめたが最後まで措くあたわず。 学究的でありながら、読んでまったく学術書のような感じがない。 この三月ウサギは章から章へと私を誘いながらのべつまくなしに喋りまくり、俳句の洞察や翻訳の難しさを微に入り細を穿って語ってくれたが、それも、教室内のそれでなく、ごく自然な口調である。暇人のかたりか。そしてアリスのように、私もずいぶん多くのことを学んでいたのだ。 はじめのうちはピンとこなかったが、それもウサギの去ったあとの庭で目を醒まし、『蝿句!』のなかでロビン・ギルが語っている問題を、今までよりずっと明確に理解しているのに気づくまでのことだった。(中略)

 

ギルはこの本の冒頭に、何が俳句であり、何が俳句でないかの基礎を一つ一つ、語り部のような平易さで説明している。(中略) その前書きだけでも、この本一冊の値段の価値があろうと言うものだ。(中略) 私は公立学校の教師で管理職にもある人間だが、ロビン・ギルの『蝿句!』こそは、教室で俳句を教える教師たちの必読書になるべきだと思う。 しかも前に言ったように、これは楽しい読み物でもあるのだ。(中略)

 

ギル自身は『蝿句!』について、こんなことを言っている。 「こうして詩と詩人が、一読したところよりはるかに優れているのを示せるのは嬉しいことである。 つまり日本語と古い俳句についての私の理解をとおして、どこが翻訳で失われてしまったかを見つけ出し、想像の力でそれを英語に再生できるのが楽しいのだ。」(中略)

 

「叩かれたくない蝿を詠んだ一茶の有名な句は、もっともよく[翻訳]されている俳句だが、私はそうした翻訳を読むたび、日本語の読めない読者にとって失われてしまったものが多いのを、悲しく思わざるをえない。 その損失は理解できない文化的背景から来ていると言うより、むしろ純粋に言語学的偶然からきているだけに、それを乗り越えることは不可能で、できるのは説明することだけである。 翻訳者にとって、これはまったく苛立たしい限りだが、同時にこの世界が決して個々の言語で言い尽くされるものでないことを、示しているところは愉快。世界は縮んではいない。 それどころか我々がおのおのの言語の多様性を保って行くかぎり、これからもずっと驚異に溢れ続けるのだ。」

 

さらに彼はこうも言う。

「『蝿句』の最大の成果は、英訳では元句の中のことばの含蓄が伝わらないため、句意を台無しにしてしまうか、句の内容を擬人化するかの二者選一を迫られる、ということを実際に示している点だろう。」[訳注:例えば日本語では「手をする」身振りが、「命乞い」と連想する。英語ではそうではないから、アタカモに命乞いするハエを画くことが不可能だ。]

 

このRobert D. Wilson の英文書評の全文、オンライン誌『Simply Haiku2005年夏号に掲載。

Fly-ku!には、十頁程の日本語小論文「一茶名句<やれ打つな>の背後に川柳あり」もあり。

 
 
やれ打つな!世界の蠅人、団結せよ!